映画『8番出口』という異変を見逃さないこと――。
無限に繰り返す地下通路をステージに、「異変」を回避し出口を探すホラー・ウォーキングシミュレーター『8番出口』。プレイヤーの目的は、ループからの脱出のみ。
『The Backrooms』(ザ・バックルームズ)などのネットミームから浸透したリミナルスペース×異変探しというシンプルなギミックで構成されたこのゲームは、KOTAKE CREATE氏が制作したインディーゲームであり、大資本制作でハイクオリティなグラフィックや濃密な物語体験を提供する、いわゆるAAAタイトルと呼ばれる大作とは真逆の存在だ。個人クリエイターの熱量によって制作されるインディゲームが有名クリエイターの大作を凌駕し、一種の社会現象と化すきっかけにはゲーム実況配信文化との爆発的なシナジーがあり、そのコアとなっているのは国境や言語を超えるノンバーバルな日本ならではのゲームの魅力があったのは間違いない。これはゲーム業界にいた者として新時代の才能を目の当たりにする大きな異変だった。
だからこそ、『8番出口』を映画にするというアイデアを初めて耳にしたとき、驚きとともに危うさを感じたのは正直な感想だ。主観視点、限定的ロケーション、ストーリーどころかプレイヤーの設定さえ存在しないこのゲームらしいゲームを、物語体験の一種の完成系といえる映画というメディアにどうコンバートするのか?
本来ゲームシステムとストーリーは水と油のような関係で、決して相性の良いものではない。長年アクションゲームの設定とシナリオを担当し、今は映像脚本も手掛けるようになった筆者だからこそ、その難易度を熟知しているつもりだ。シンプルでソリッドだからこそ楽しみの幅を無限に生み出すことができるゲームシステム――それはある意味、洗練された鉄骨建築のようであり、安易に世界観設定やドラマの起伏を乗せようとしても癒着することなく無残にも滑り落ちていく。だからこそ、ゲームシナリオでは、ある種のギミックをベースに、キャラクターに人格を与え、プレイヤーの行動とドラマをリンクさせる作業が必須となる。無限のトライアンドエラーを繰り返す絶望的パズルの先の最適解に、映画『8番出口』はたどり着けるのだろうか?
映画『8番出口』の視点はゲームと同じく主観視点から始まり、「↑出口8」看板に主人公の「迷う男」が目を合わせたタイミングで客観視点へと切り替わる。主観(ゲーム)から客観(映画)への視点の切り替わりは、ゲームと映画の境目を曖昧にし、彼岸と此岸、夢と現、虚構と現実と相反する概念の境界線さえも曖昧にしていく。観客はいつしか、スクリーンの中の「ある男」のように、自分自身もまた無限回廊の悪夢に取り込まれているような錯覚へと導かれていく。そう感じた瞬間、映画『8番出口』はゲームストーリー手法であるナラティブ――自発的物語体験を生み出していることに気づく。映画『8番出口』が、単なるゲームの映像化ではない、ゲームと映画の融合という奇跡的な最適解にたどり着いていることを目撃できたのは非常に喜ばしい異変だった。
気がつくと見知らぬ電車の中にいる。よく知っている風景のようで、でも何かが違う。ふと不安になる――自分はいつ電車に乗ったのか、自分はどこに行くのか?
そんな夢を、よく見ることがある。進むべきか、引き返すべきか、その判断は自分自身に委ねられている。行先のわからない永遠のループは悪夢のようでありながら、どこか人生そのものにも似ている。私たちは人生という通路に放り出され、日々、大小の異変と向き合いながら、選択を迫られ出口を探し続けている。
観客にとって映画館という閉鎖空間から外に足を踏み出す瞬間こそが、この異変探し――映画『8番出口』の真のエンディングであり、新しい現実へのオープニングとなるだろう。
- 佐藤直子
- 脚本家、ゲームデザイナー。美大卒業後、ゲーム業界に入り『SILENT HILL』の制作に参加。その後、『SIREN』シリーズ、『GRAVITY DAZE』シリーズの設定・シナリオを手掛けた。他作品に、劇場アニメ映画『バブル』共同脚本、amazarashi『電脳演奏監視空間 ゴースト』脚本協力、『1999展 ―存在しないあの日の記憶―』など。
2025年カンヌ国際映画祭「ミッドナイト・スクリーニング」部門で上映された『8番出口』は、ジャンル映画という形式を基盤としながら、現代的な主題と人間的深度を内包する異色作である。同部門はホラーやスリラーといったエンターテインメント性の強いジャンルを選出する枠ではあるが、アートと娯楽の境界線を撹乱する作品が登場しており、本作もまたその一例に連なる。
原作は同名のインディーズ・ゲームである。『CUBE』や『SAW』など、脱出系スリラーの系譜に属する構造を有しつつも、映画版『8番出口』は単なるジャンル的消費に終始しない。脱出サスペンスやホラーといった枠組みを踏まえつつ、物語の核に据えられるのは、〈父性〉という今日的かつ普遍的な主題である。この複数のレイヤーを重ね合わせた構成が、作品に独自の厚みをもたらしている。
映画は、地下鉄内での短いエピソードから始まる。主人公の若い男(二宮和也)は、赤ん坊の泣き声に苛立つ乗客が母親を叱責する場面に居合わせるが、何ら反応を示さず、そのまま視線を逸らす。この導入は、現代の若年男性が育児や子どもといった事象に対して抱く無関心、あるいは関与への躊躇といった心理を鋭利に描出する。映画が描こうとするのは、社会的役割の変容に戸惑う〈未成熟な男性像〉であり、彼の内面をめぐる旅は、地下空間という物理的装置を通じて視覚化されることになる。
地下鉄を降りた彼は、元恋人から突然の妊娠を告げられる。応答不能な彼が逃げ込むように向かう「地下通路」こそが、物語の装置的中心である。そこから始まるのは、終わりなき地下通路を彷徨う“人生ゲーム”であり、観客は主人公と共に、脱出への条件──すなわち「異変」を見極めながら出口を目指すことになる。この異変探しの設定は、原作ゲームから忠実に踏襲されているが、映画はそこに物語的意味を付与することで、作品をゲーム的構造から切り離し、心理劇へと昇華させることに成功している。
この通路には「オジサン」「女子高生」「少年」といった象徴的な存在が次々に登場する。彼らは、主人公の過去や記憶、社会的役割、あるいは無意識の投影として機能し、直線的なプロットを拒絶する多義性を与えている。迷宮的空間での体験は、そのまま彼の精神的変容の過程となる。恐怖と不安は単なるジャンル的演出ではなく、〈父になること〉への抵抗と混乱、そしてそれに伴うアイデンティティの再編成として受け止めることができる。
とりわけ注目すべきは、劇伴にラヴェルの「ボレロ」が用いられている点だ。メインテーマの2小節が延々と反復され、169回の繰り返しによって構成されるこの楽曲は、単調さを超えて、高揚感を孕む。映画はこの音楽的構造を巧みに活用し、地下通路における単調な巡回──同じ景色、同じ人々、わずかな「異変」──を、反復の果てに訪れる内的覚醒へと転化させる。単なるBGMではなく、構造の核として音楽が機能している点において、本作は映画的時間の設計にも自覚的である。
終盤、主人公はかつて自身が抱えていたあるトラウマ的記憶と対峙する。それは単に物語上の伏線ではなく、彼の〈子としての記憶〉と〈父になることへの不安〉が交錯する臨界点であり、人格の再統合を促す通過儀礼として描かれる。この記憶と向き合うことが、彼にとっての真の“出口”を指し示すことになるのだ。
1990年代、日本映画は“Jホラー”の名のもとで世界的評価を獲得した。だがその多くは、様式性や演出の妙に依拠した作品群であった。本作『8番出口』は、そうした伝統を継承しつつも、ジャンル映画というフォーマットに現代的な主題、とりわけ〈男性性〉や〈父性〉といった規範的役割の揺らぎに接続することで、新たなジャンル的成熟の段階に踏み込んでいるように見える。
映画とは、娯楽であると同時に、人間の深層を映し出す装置でもある。『8番出口』は、ゲーム由来の外面的構造に内面的主題を交錯させることによって、ジャンル映画における“語り”の可能性を拡張している。日本のジャンル映画が新たなフェーズに入ったことの予兆ともいえる。
- 立田敦子
- 映画ジャーナリスト、評論家。ゴールデン・グローブ賞国際投票者。WebメディアFan’s Voice主宰。株式会社リュミエール代表 カンヌ、ヴェネツィアなどの国際映画祭を25年以上取材している。映像関連のアドバイザー、コンサルタントとしても活動。著書に「おしゃれも人生も映画から」などがある。
この映画の主演は彼でなければいけなかった。その理由をあげてみる。これは「二宮和也について私が知っている8つの事柄」である。
まず、メインステージとなる地下通路は「なにもないがすべてある」場所だ。真っ白なタイルが敷き詰められたホワイトルームにはわたしたちの生命存続を保証するものは「なにもない」。だが二宮和也が出現、あたりを彷徨することで「すべてある」ように感じられていく。なにが? 存在の証明が「すべてある」。つまり実存。この俳優は人間の実存を体現する存在であり、その能力を極めてシンプルに明示したのが『8番出口』である。
①本作において声は、特権的な意味を持つ。地下通路に迷い込んでからかなり長い間、主人公は独りでいる。彼が発する声は、独り言であると同時に、閉ざされた空間への問いかけだ。二宮和也の声を想起せよ。彼はもともとモノローグでありダイアローグでもある声をしている。むしろモノローグでもなければダイアローグでもない声かもしれない。彼の声質には生来「己と対話している」ニュアンスがある。周囲に他者がいる場合、独り言は訝る対象となるが、独りきりでいる時は正気でいるためのフットライトになる。この映画における二宮の声は「気付け薬」と言ってよい。迷える観客の道標だ。
②監督・川村元気が絶賛している通り、二宮は類い稀なる運動神経の持ち主である。走り、転げ、のたうちまわる。輝きに満ちたその身体性は、密室との格闘というより「空間とのコミュニケーション」に思える。ある種のボディランゲージであり、孤独のダンスとも言えるかもしれない。
③さまざまなリアクションの中でとりわけ脳裏にこびりつくのは「振り返り」だ。ある時はゆっくり。ある時は瞬発的に。相手が変われば「振り返り」も変幻する。映像の中での「振り返り」はかなりの技術を要するが、二宮はごく自然に、しかし常に鮮やかな「振り返り」を画面に刻印する。二宮の「振り返り」こそが、時空を歪め、静止させ、わたしたちの動悸を高鳴らせていることにひれ伏すしかない。
④「振り返り」は、その人物が背後からの視線に気づいたことによる行為に他ならない。つまり、「迷う男」は「見つめられる」存在なのだ。「歩く男」に見つめられ、「少年」に見つめられ、「恋人」に見つめられ、監視カメラに見つめられ、コインロッカーに見つめられ、ネズミたちに見つめられ、「8番出口」に見つめられている。受動態の名手でもある二宮は、あらゆる視線を顕在化させる客体でもある。
⑤立ち止まり、また歩き出す。二宮は「歩行の息づかい」が美しい。静止と再開にヒエラルキーを与えず、等価の姿勢として表現できるからだろう。
⑥迷う男が呟きながらポスターたちをチェックしていく様は、どこか不思議な快適さに満ちてはいないだろうか。まるで「自分にメモするように」声を出す二宮のリフレインは、リセットを繰り返すことでもあり、ゼイゼイと喘息を唸らせながらも、持久力を感じさせる。確実に弱っていながらも、しなやかに生き延びていくサヴァイヴァーの精神がそこにある。
⑦闇のスクリーム。ネズミから黒猫へ、白い服の黒髪の女へと反転するダイナミックなシークエンスの先駆けとなる叫びを二宮は、縦横無尽に地下通路に響かせる。スクリームは、自分と目が合うという地獄の予告であり、哲学者の孤独や置き去りにされた知性、智力を浮き彫りにするスパイスでもある。
⑧この映画で終始、表情にデフォルメを施さなかった二宮和也は最終盤で「ある貌(かお)」を発見させる。それは彼方から濁流がやって来る瞬間。守るべき存在=少年がいるからこそ、恐怖ではなく畏れが生まれた。濁流にではなく、そんな自分の変化に驚いている様を形作る。そうしてわたしたちは気づく。迷うとは「生まれ直す」ための期間なのだと。
実に感動的なラストカット。あそこから二宮和也がそれまでに積み重ねてきたものを遡ることで、わたしたちはまた「新しい物語」に遭遇するだろう。
- 相田冬二
- 劇場用パンフレット、雑誌、ウェブ媒体に映画評、映画人のインタビュー記事を執筆。『何者』『ラストレター』『百花』『四月になれば彼女は』などのパンフに寄稿した作品評111篇を収録した「あなたがいるから」(Bleu et Rose)が発売中。